2013/02/02
開発とライセンスのホットな関係
ソフトウェアは知的財産の固まりであるため、使用時には使用許諾書を良く読む必要ありますが、通常読み飛ばしがちです。特にインストーラで表示されるものは読み飛ばしがちですね。
そして使用するだけでなく、開発時にも常に意識しなければなりません。
明記されている場合は良いのですが、明記されてないときは著作権者に確認を取る必要があります。自己の勝手な判断ではいけません。

私が開発したソフトウェアの中には移植したものがありますが、扱いは基本自由でよい(BSD相当)ものもあれば、フリーウェアでのみ公開が許可されるものがあります。
それに反すれば当然しかるべき制裁を受けることになるでしょう。少なくとも優れた技術者の方々からは信頼を失い、好意的に技術的な協力を受けられなくなると思います。
ソフトウェアは一人の力では作成できません。仮に天才的な才能があり、全てを開発することができたとしても、それを実現するだけの作業が適切な期間内に完了させることは無理です。つまり常に誰かの成果物を組み合わせることで成り立っている世界なのです。故に協力しなければ何も新しいものは生まれてきません。

一見、素晴らしいだけの関係見えますが、当然阻害する要因もあります。
それはライセンスです。そう、ライセンスは諸刃の剱なのです。
他者は自己の知的財産権が侵害されていないか確認するため、最終的には公の場で解決を図ろうとします。

かつてUNIXとBSD UNIXの対立が勃発し、最終的にBSDはUNIXコードを全て刷新することで解決が図られました。

さて、力を持った組織であれば決着が付くまで議論することが出来るでしょうが、そうでない場合はどうしたら良いでしょう。
それは、ライセンスで守ることに尽きます。ライセンスは諸刃であるため守りにも使えます。

代表的なライセンスにはGPLと修正BSD(以後、BSD)があります。
どのライセンスを採用するかは権利者の方針に依存し、優劣は語れません。
ただ、利用する方として扱い易く、安全なのはBSDです。

GPLの条文を原文で読んだことありますか?長いですね、そして、法律のように解釈次第で意味が変わります。
(例えば著作権法の引用については、どこまでが引用でどこまでがそうでないかはケースバイケースです。少し論点からは外れますが、新聞社の場合はヘッドラインすら引用を認めていない場合があります。私の作成物の場合はまあ常識の範囲内でとしか言えないですが、それでも何行にも渡り丸ごとコピぺは許可しません。例え引用元を明記してもです。創造的な何かに関わることであれば状況次第ですが、そうでない場合は例外無しです。)

試しに、これこれこのような使い方をしていますがGPL違反していますか?と法に見識のある人、例えば企業ならば顧問弁護士などに問い合わせても様々な意見が返ってきます。
そして良くある答えは「前例に照らし合わせて…。たぶん…だが1つの見解であり後は自己責任」など。
(間違っても無関係な人に問い合わせるのは避けた方が良いでしょう。責任を負わないが故に自身が正しいと思ったことをほぼ断定的に回答するケースがあるためです。まあ、無責任であるが故の発言であり、耳を傾ける価値があるかは自明です)

具体的な一例を挙げると、LinuxカーネルはGPLです。変更すればそれもGPLが適用されます。ところがカーネルにはカーネルモジュールというのがあり、直接改造しなくても機能を改変できる機能があります。今でこそモジュール化したものはGPLにはなりませんが、かつてモジュールもGPLが適用されるかどうか論争があったそうです。
その幕引きをしたのがかの有名なLinuxの生みの親Linus氏です。権利者がモジュールはGPLが適用されないと宣言したため終息しました。

このように綺麗に解決するならば良いのですが、そうでないケースが多いでしょう。
一方、BSDはライセンス条項が短く、明快です。そして、制限が殆どありません。
さあ、利用者である私はどちらを好むのか、言うまでもありませんね。
開発は気軽に行いたいのですから。

さてと、ではライセンスは全部BSDであれば良いのか?という単純な方向には進みません。結局はその時代、その時点の結果から主観で判断されるからです。
オープンソースであるLinux、クローズドソースであるWindows、BSDベースのMAC、どれも広く世に受け入れられ成功している例だと思います。
一方それにミクロな世界である個人ベースでも千差万別です。例えば私の場合は、成果物がGPLの影響を受けている場合、多分ある一定のレベルまで達したら開発を中止するか、関わらない、関わったとしても公開されないでしょう。最低限の目的が果たされれば良いためです。
他に目を向ければ、GPLであるが故に数多の手が入り、方針を決定する強力なリーダーの不在により当初の崇高な方針が瓦解して無惨な結果となり、最終的には放棄されたものもあれば、多くの人の手を経てもリーダーが次々変わっても原作者の想像を超えた素晴らしい成果になり、永続的にメンテされているものもあります。

正解は特に無いのですが、ライセンスに関してはもう1つの選択肢があります。
それはマルチライセンスです。例えばGPL、BSDどちらか1つ好きな方を利用者の目的に応じて選択することが出来るという形態です。プロプロイエタリィにしたければBSD、コピーレフトにしたければGPLを選択すればよいので、関わる開発者を広く募る方針であれば最適な案だと思います。クリエーターに制限は課されるべきではないと考えるためです。ただ、制限されるが故に創造されるものもあるので、一概に断定できないところが困ったことろではあるのですがね。

ところで、ライセンスというのは双方(権利者と利用者)の合意で成り立ちます(合意に至らないならば、当然交渉になります)。それぞれAさん、Bさんとしましょうか。二者間だけの関係で成り立っているにもかかわらず、それに異議を唱える者が現れます。仮にCさんとしますか。無関係にもかかわらずなぜ登場するのでしょうか?
大抵、Cさんは一方的な思いこみである場合が多いからです。そして「…すべき。…しなければならい」と信念なのか信仰なのか知るよしは無いのですが持論を展開し始めます。が、当然AさんとBさんにとっては馬耳東風です。1つもクリエイティブな要素が無いため、耳を貸す価値がないのです。そしてCさんは足を引っ張っているつもりが、実は触れているものは自らの足であったということに気づかないで生涯を終えてしまうかもしれません。登場する気概があるならば生産的な方が好ましいのは言うまでもありません。
もしクリエーターの関心を引きたいならば無価値な制限ではなく、創造的な提案して欲しいものです。例えば新機能の提案とそれを実現する具体的な可能性の提示です。
例えばLinus氏は他者に対して放送禁止用語を公の場で連発する困ったお人ですが、言われた方もそれを聞いた方も気分を害するどころか、前向きに受け止め、さらに氏を賞賛することが多いです。何故か、それは発言の根底にはカーネルの品質を高めること、すなわち確固たる創造的な意志が込められているからです。それに反する発言、行為には烈火のごとく怒り、逆をすれば隠すことなく喜びを露わにします。信頼されるリーダーがあってこそのカーネルの発展と言えるでしょう。

結局何が言いたいかというと、創造には正解は無く、無いが故に互いに高めあうための模索をしていければ良いですね。人は時間的に限られた存在であるのだから。

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